ベラルーシで思ふ、あれこれ

ベラルーシに来て、やっぱり一番気になるのは、「言論の自由」がないということ。去年から建設が始まったベラルーシ初の原発を建てる際に、地元で対話型のパブリック・ヒアリングを実施したグループがあったそうだが、反対!というトーンではなく対話型で話しを進めたのにも関わらず、実施後に政府に連行されたと、、、。そんな話しは日常茶飯事で、原発推進を掲げる政府に対しては、全く太刀打ちできない状況なんだそうです。

でも、例えば放射能対策の専門家に「言論の自由があったら、みんな声をあげるだろうから新たに原発建設に歯止めをかけられる可能性は大きいし、情報開示もすすみ、事故の汚染対策ももっと進んでいるんじゃない?」当然でしょ!と思って聞いてみると、"well... maybe" という、うかない返事。なぜ?と聞くと「自由があっても、情熱がなければ何も変えて行けないし、実際の対策には現実的にお金もかかるから」ということらしい。

しかも農地もほとんど国が管理しているから、汚染地域で作物を作らないと決めたら対応は早く、農家さんにも別の仕事が与えられるので食いぶちにはぐれることはない。食品検査も一斉にやりましょうということになると、一律でやる。もちろん国民の健康を守るということを優先して率先して対応を考える政府であれば、という理想論ですが、、、

まぁ、そうだよね。日本のように言論の自由があっても、自己規制してしまっているメディアの人たちだって多い。しかもみんなが好き勝手な事言うから、情報が錯綜して逆に分かりにくくなってしまったり。もちろんじゃぁ言わないほうがいいって訳じゃありませんが。

でも今回のような大惨事の場合、ポスト共産主義国の弱みもたくさんあるけれど、自由資本主義の弱みもあると思った。例えばガイガーカウンターにしても、いろいろありすぎて、あまりにも選択肢が多すぎる。放射能に関する情報だってたくさんありすぎる。そうすると人間って脳みそシャットアウトしてしまう傾向に出てしまうんじゃないか。消化不良で、エスケープか、シャットアウト。そういう状況に多くの日本人がいるような気が。

今日はベラルーシの首都ミンスクに1995年より在住、ロシア語ペラペラの辰巳雅子さんに会ったのだけれど、

社会が政府がどうとか言うよりも、自分と家族からやっていく。 法律とかどうというのではなくて、今日から出来る事をやりましょう。 自分の信じる道を進むしかない。 日本は個人の行動の自由があるし、個人の決定権があるんだから。 自分で自分の意見を尊重するしかないでしょ。

というようなことを言っていて、ほんとその通りだと思った。 政府がどうとか言ってられないね。ってもちろん選挙は大事だけれど!

辰巳さんは「ベラルーシの部屋ブログ」で、日本でも役立ちそうなチェルノブイリ後の対策や、ベラルーシでの日常をつづっていて、とても頼れる存在の方。「自分と子どもを放射能から守るには」(世界文化社)というとても分かりやすい本の翻訳も手がけられてます。ものすごくパワフルで明るい方でした。