シューマッハーの仏教経済学 ー「スモール・イズ・ビューティフル再論」を読んで

schum.jpg「シューマッハーって知ってる?」と聞けば、たいがい返ってくるのは「元F1ドライバーのミハエル・シューマッハーでしょ?」という答え。いやいや私にとってのヒーロー、シューマッハーは、経済学者で哲学者の「E.F.シューマッハー」(1911〜1977)。環境問題や未来の経済のデザインについて真剣に取り組んでいる人であれば、馴染みのある名前のはず。

シューマッハーは「スモール・イズ・ビューティフル」という哲学で知られている。私が彼の名前を聞いたのは、イギリスで「持続可能性」を学ぶ大学院時代で、同じく尊敬してやまない思想家サティシュ・クマールに紹介された。サティシュは、ガンジーの非暴力の思想を受け継ぎ、主に農業改革を提唱する活動家ヴァンダナ・シバらとともに、イギリスのシューマッハー大学で教えている。「真に国際的で豊かな社会を創って行くための教育機関の名前になっちゃう人って、どんな人だったんだろう?」とは思ったものの、その時は「スモール・イズ・ビューティフル」の意味がなんとなく魅力的に響いただけだった。

それが最近、シューマッハーの著書「スモール・イズ・ビューティフル再論」(講談社学術文庫)を読み、すっかりはまってしまった。もう大教祖様!の気分。この本では、仏教経済学という全く新しい経済のロジック、健全な開発と土地の利用、世界の貧困を救うためのシンプルで現実生のある方法論… 複雑化された現代社会の問題を単純明快な構図に落とし込み、常識をパッと解き放してくれるので、各ページうなるようにして読んでしまう。こんなものが1960年代後半に書かれていたなんて!なぜ彼の哲学が世に浸透していくために、こんなに時間がかかってしまったんだろう?いやまだ浸透していないから、こんなに問題が山積みなのかもしれない。

vandana.gifちょうどこの本を読み始めた頃、リーマン・ブラザーズの破綻が発覚した。シューマッハーが言うように「精神性を欠いた経済学は長続きしない」のは明らかで、人間性を忘れ、効率と合理性のみを追求した経済が崩壊していくのは当然のことでもある。では次の経済とは、どんなもの?社会全体でいまだに統一されたビジョンが描けていないとすれば、今こそもう一度、シューマッハーの「仏教経済学」に真剣に耳を傾ける必要があると思う。というわけで、今日はかなり引用箇所が多いのですが、「読書の秋」ということで、「スモール・イズ・ビューティフル再論」(講談社学術文庫)をピックアップです。

まずシューマッハーの人となりが分かる箇所から引用。

KUMAR.jpg(サティシュ・クマールの前書きで)
「私がビルマでの所見を仏教経済学という題をつけて発表すると、多くの経済学者仲間がいったものです。『シューマッハーさん、経済学と仏教とどんな関係があるんですか。』私の答えは、仏教抜きの経済学は愛のないセックスです、という一言でした。『精神性を欠いた経済学は一時的な物的満足をあたえるだけで、内的な達成感はあたえません。精神的な経済学は、サービスと同情と人との絆というものを利潤や効率と並んではたらかせます。両方とも必要で、きりはなせません』

彼はこれら二つの言葉ー仏教と経済学ーをあえて結びつけた欧米経済学者の先駆者であった。これは勇気のある行動だった。仲間の経済学者たちが彼を変わり者と呼ぶと、シューマッハーはユーモアの感覚で応じ、「変わり者のどこが悪いのだろうか。変わり者とは革命を起こす機械の部品で、それはとても小さい。私はその小さな革命家だ。それは褒め言葉なのだ」といった。(p8)

(序言より ー シューマッハーさんの親戚が書いています) 
シューマッハーの言葉は「変えることができる事を手がけよ」であった。いかに些細なものであっても、具体的なよい行為はいつでも意味がある。人々は欲望と必要、生活の質と消費の量、英知と知識、大衆による生産と大量生産の区別を再び学ばなくてはならない。彼はバーバラ・ウォードと並んで、無限の成長概念の肯定に異を唱えた最初の経済学者であった。突如として、彼は物質主義反対の精神指導者として喝采を博することになった。以来持続可能な開発ー1990年代の、十分には理解されていない響きのよい叫びーの正真正銘の予言者ともてはやされた。シューマッハーにしてみると、持続可能性という概念は人間の精神的、物質的福祉を議論の余地なくあらゆる政策や決定に優先させるものであった。(p19)

「持続可能性をあらゆる政策や決定に優先させる」ーこれって、どうして日本の新内閣でも出来ないのでしょうか?

さて、この本は、シューマッハーを有名にした「仏教経済学」という考え方を支える「スモール・イズ・ビューティフル」のことだけでなく、彼の持論のエッセー集で(本の英語タイトルは”This I Believe and other essays”)、経済学、社会学、都市学など広範囲に渡って彼の論理がテンポ良く展開されているのだが、まずは彼の哲学の根幹をなす「仏教経済学」について。「仏教経済学」って何なんだろう?

唯物主義者が主としてモノに関心を払うのに対して、仏教は解脱(悟り)に主たる関心を向ける。だが、仏教は「中道」であるから、けっして物的な福祉を敵視しはしない。解脱を妨げるのは富そのものではなく、富への執着なのである。楽しいことを享受することそれ自体ではなく、それを焦がれ求める心なのである。仏教経済学の基調は、したがって簡素と非暴力である。経済学の観点からみて仏教徒の生活が素晴らしいのは、その様式がきわめて合理的なこと、つまり驚くほどわずかな手段でもって十分な満足を得ていることである。(p55)

簡素と非暴力とが深く関連していることは明らかである。適正規模の消費は、比較的に低い消費量で高い満足感を与え、これによって人々は圧迫感や緊張感なしに暮らし、「すべて悪しき事をなさず、良いことを行なう」という仏教の第一の戒律を守る事ができる。物的資源には限りがあるのだから、自分の必要をわずかな資源で満たす人たちは、これをたくさん使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会の中で高度に自給自足的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも、戦争などに巻き込まれることがまれである。(p57)

シューマッハーは有限の資源を有り余るものとして浪費し続ける経済発展、そしてそれに油を注ぐ一人一人の物質至上主義的な生活様式に対して、早くから警鐘を鳴らしていた。当時は「地球温暖化問題」はまだ認識されていなかったものの、彼はいち早くその後の世界の結末を予測するだけの知識と深い洞察力を持ち合わせていた。

さて仏教経済学の土台は、愛や同情や人や自然とのつながりだ。ではそれを具体的に押し進めて行くのに必要なものは何か?彼はそれを「中間技術」だと言う。「中間技術」とは何だろう?

「中間技術」は、生産性では伝統的技術(現在崩壊に瀕した状態にある)よりはるかに高く、同時に地方では欧米の非常に洗練された、きわめて資本集約的な技術と比べるとずっと安くて簡単である。大まかな目安としては、この「中間技術」は平均で一仕事場当たりの設備コストが70ポンドから100ポンドの水準であるべきだといってよいだろう。この水準ならば、欧米化された部門の外にいる、有能な労働者の年間所得とまず現実的な比率であろう。(p194)

私が中間技術と命名したこの技術は、これらの国の、消えつつある技術と比べてずっと生産的であり、活力があるだろう。そのうえ、それに正しい教育的な効果があると思う。それが肝腎である。なぜなら、教育と経済開発が手を組んで進まない限り、真の発展はありえないからである。

大資本を投資して工業化や集約型農法を進めたりすることで、何が起こったか。労働者は無表情になり、土地は生命力を失ってしまった。そこで飢えを解決するには、「土に戻るしかない」と彼は断言している。そして自給自足的な暮らしを土地の人たちが創りなおす事。その際に必要なのが、「中間技術」 ー つまり伝統的な技術を活かしてはいるが、もっと生産性の高い技術で、しかし近代的で統一された最先端技術とはほど遠い(インドのカディがこれに当たる)ー だと言うのだ。なんとシンプルで現実的な解決案なんだろう。シューマッハーはサティシュに対して「どんな阿呆でも物事を複雑にすることはできるが、単純化するには天才が要る」と、生活をいたずらに複雑にする、この高度技術社会への不満をもらしたそうだ。シューマッハーは、自分の身の丈に合った持続可能な開発の「中道」を発見するようにすすめた。未来を資本やエネルギー多消費型の技術にあずけるのではなく、民衆の力と自分自身の精神と肉体の創造力に頼るよう呼びかけた。このメッセージは今日依然としてもっとも幅を利かせている経済政策への挑戦だ。

シューマッハーの理論は援助政策にも当てはめて考えられる。彼はインドの経済学者アマルティア・センと同様、飢えと経済の問題について、これまでにないマインドセットを持ち込んだ。シューマッハーは、現在の開発専門家は、電気、鉄鋼、セメント、輸送やその他の公共サービス、ほぼ完全な組織、複雑な会計(できればコンピュータ使用)という、近代的で精巧なインフラストラクチャーをつくる巨大な計画を遂行しているだけで、現実的に可能なことはすべて無視する傾向にあると批判した。アフリカに関心がある私は、福田首相がアフリカへの援助額を倍増するというニュースをどうも手放しに喜べなかったし、どうしたら世界の貧富の格差を解消していけるのだろうと途方に暮れてしまうのだが、シューマッハーの開発論は現実的な一歩を踏み出す良い手引きになりそうな気がする。

そしてシューマッハーは、人間が土との新しい関係を築く必要性に執着して、何度も述べている。

エネルギー問題の考察が、われわれを「土に帰らせ」「自然に還らせ」たのは、意外と思われるかもしれない。しかし、問題の表面からすすんでその根源を探ろうとすると、これは当然のことである。現代世界の道徳的弱点は、変えることのできない自然の現実から身を遠ざけてしまったことで、その一つの現れが化石燃料への不注意な依存なのである。本節で述べたことは、農業を永続性の基盤の上におきさえすれば、自然にエネルギー問題は解決されるということではない。そうではなくて、それが意味するのは、解決策は単なるエネルギーの技術や経済学 ーないしはエネルギーの権力構造ー だけにはないこと、またエネルギー問題が提起している課題とは、新しい生活様式を発展させることであり、それは論理的にまた不可避的に、われわれがその一部であり、またそれなしでは生きられない、土との関係を改めることから始めなくてはならないということである。

土地やその上の動物への慈しみのない態度は、不用意な都市化や無用な工業化を起こしたような他の数多くの態度や、新奇なものー技術的、化学的、生物学的等のーを、その長期的影響が少しでもわかるまでは大喜びでもてあそぶ一種の熱狂癖と関係があり、またそれの兆候でもある。土地をいかに扱うかという単純な問題のなかにきっとわれわれの全生活様式が含まれていて、土地政策を本当に変えるには、その前に宗教とまではいわないが、哲学を根本的に変える必要がある、と私は信じている。

まとめると「仏教経済学」が求めているアクションは次の三つに要約できる。

第一に、自然に対する新たな態度が必要であり、その態度を庭木の手入れ、園芸や農業の仕事において実践しなくてはならないことをみんなが理解する必要がある。これは意味の深いことであって、単に功利的なことではない。(中略)第二に、われわれは「大きければ大きいほどよい」という考えを意図して捨て去り、物事には適正な限度というものがあり、それを上下に越えると誤りに陥ることを理解しなくてはならない。正しいスケールであれば、Tender Loving Care(TLC)の要素を導入できるということにある。さてTLCは、最上の肥料であり、カネでは買えない。その意味は「優しく愛情のこもったいたわり」である。その威力には驚くべきものがあり、またそれがシステムから排除されるとどんな混乱に陥るかも同様に驚くべきである。(中略)第三の行為は新しい技術を創造することである。私が「言葉は肉とならねばならない」というとき、私の念頭にあるのは、現在われわれが追求している暴力と巨大主義ではなく、その代わりに健康と美と永続性という三つの徳目をもつ道に技術を立ち返らせるこうした努力なのである。

そして環境問題や社会システムを変えて行くためには、一人一人の生きて行くための哲学を変えて行く必要性があるのは明らかだと説く。

人間の共同生活を考慮にいれずに環境を論じるのは無益であるばかりか、不可能なことなのである。次のようにいえる。全ての社会、社会システムは、それに値する環境をつくりだす。私は先に人間の生活全体を社会システムとのその環境の間の対話と呼ぶことができ、もし社会システムが現実に合わないならば、環境は病むことによってしっぺ返しをしているのだと示唆した。環境に問題を起こしているのは、われわれの社会システムが知恵、正義、勇気、節制の基本道徳を無視しただけではなく、進んでないがしろにしているからなのである。したがって、当然のこととして多くの人が別の社会システムを声高に求めている ー彼らは間違いなく今日の問題を「解決する」ためにより多くの科学・技術調査を求める人々よりも、洞察力がある。ただ、社会システムが環境をつくるように、われわれの基本的な哲学が社会システムを形づくっている点も強調しなくてはならない。この哲学が変わらない限り、システムの根本は変わりえない ー権力や富の分配の点とか、構造や行政のやり方の点とかでいかに大きな変革がおこなわれようとも、である。(p298)

民主主義、自由、人間の尊厳、生活水準、自己実現、完成とは、何を意味するのだろうか。それはモノのことだろうか。人間にかかわることだろうか。もちろん、人間にかかわることである。だが、人間というものは、小さな、理屈の届く集団の中でこそ人間でありうる。そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考える事を学ばなければならない。経済学がこの点をつかめないとするならば、それは無用の長物である。国民所得、成長率、資本産出比率、投入産出分析、労働の移動性、資本蓄積といったような大きな抽象概念を乗り越えて、貧困、挫折、疎外、絶望、神経症、犯罪、現実逃避、ストレス、混雑、醜さ、そして精神の死というような現実の姿に触れないのであれば、そんな経済学は捨てて、新しく出直そうではないか。出直しが必要だという「時代の兆候」は、もう十分にでているのではないだろうか。(p80)

シューマッハーの教えは混沌とした時代から抜け出し、新たな時代を作り出して行く際の道しるべとなることは間違いない。確実におすすめの良書。全ての大学の経済学部で必読書にするべきだし、官僚や企業のトップなどにも読んで頂きたい。是非、読書の秋の季節にじっくり味わいながら読みたい一冊です。

<おまけ>
シューマッハーの言う「理屈の届く小さな地域」つながりで。9月14日、新しく鎌倉に引っ越して来た仲間、ちーちゃんと義信くんの結婚パーティーが、坂の下で行なわれました。心あたたまるパーティーで、みなさん幸せのお裾分けを頂きました。2人は障害者の人たちが暮らす施設で働きながら、平和な社会のための活動を続けています。おめでとう&ありがとう!君たちとまた鎌倉で創造していけるのが嬉しいです。(PUNETEの落合さん、写真をありがとうです)
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そして先週末は極楽寺の有名インドファミリー、アナンさん宅で開かれた誕生日会&インド音楽と料理を楽しむ会。この方の素晴らしいところは、毎朝インドのお豆を煮てご近所さんに配り歩くところ。豆&スパイス屋さんだからその宣伝もかねているわけですが、根っからの行商人というか、インド流のビジネスってさすが地に足ついているなと感心します。娘さんは、ガンジーの意志を引き継いで建設されたインドの職業訓練所から帰国したばかり。そして息子のバラッツ君は、伝統的な古布カディを販売中。今度ゆっくりシューマッハーについてお話したい、と盛り上がっている鎌倉です。(誘ってくれたMiddlesのぶさん、いつもありがとう)
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anan01.jpgそしてこちらは近所にやってきた、建長寺の托鉢修行。「おーーーー」という声が鳴り響いて来たので、びっくりして外に出て見るとお坊さんが家に向かってお祈りして下さっているではないですか。普通に仏教が生活の中に入り込んでいるのが、鎌倉の面白いところ。写真は、我が家のお向かいさん、テラを可愛がってくれている「ニャンニャンのバーバ」。なんて書いていたら、今、近くの植木屋さんがお茶を飲みに来て、「大仏坂の山に行くと、くるみが落ちてる季節だよ。11月は竹でほうき作り、1月は籐でカゴ作りをしよう」なんて話で盛り上がったり、「昔はこの辺でも豚を飼っていて、食べ物の残りかすを食べてもらったり、汲み取りで畑の肥料にしていた」なんていう話を教えて下さったり。失われてしまった自然と近い生活が少しずつでも蘇っていくと嬉しいと思います。